musuhi

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世界の多くの宗教が大きく間違った方向に進んだの何故か?
世界に類を見ないほど 各種各様の神様がいらっしゃる日本の神話のコンセプトは?

@  さて 宗教の間違いはどこで???

最も大きな問題は 教典なのである。


世界三大宗教はその教祖が教典を記していないである。
そもそも、人に完全な言語、文字や、人の記憶に完全なモノなどあり得ない、
教祖様が
神から預言(預けられた言葉)を受け教祖さまは理解できても、周囲で聞き及んだ
弟子たちが理解できたのだろうか?
、彼らの口承伝承が数十年後文章にまとめられたのである。
 でたらめではないが、大きく変質しているのは想像に難くない。

しかも、教典が書かれた時代、文盲がほとんどで文字を理解できるのはごく一部の
恵まれた環境の人間である。  多くの弟子は恵まれない環境であることは想像に難くない。

おそらく、弟子自体も文盲が多くいたに違いないのである。
 完全な文章に至るには
可成りの年月を要したであろう。 キリスト教は没後65年ぐらいと思われている。
パウロが編集したとされるが、彼は復活の前のキリストとは面識がなく、復活後のキリスト
と面談できたようだ。  他の宗教もほぼ同じような経過で文章になっている。
 

キリスト教を例に取るのはもうしわけ無いが、最も小生の愛すべき教典であるからご容赦願いたい。

新約聖書は全体の編集をしたのは英名 ポール 日本では パウロである。
彼は生きたキリストを見たことも無いし、弟子でもなかった、しかもユダヤ教の神学者でもあった。
ユダヤ教もキリスト教も根元は同一なので大きな問題は無い。
また、13人の弟子の内 聖書に出てくるメインの人物は4名である。
愛すべき内容には変わりないが、何か不自然さが長い間引っかかっていた。

種を明かせば、当時の皇帝の開いた宗教会議で決められたのである。 この事実を知らないのは
信心が浅いせいだ。 盲目的に教典を信じることは神に対する冒涜である。

キリスト教布教のためと、当時の独裁者にとって都合の良いところのみ正式な聖典とし
他の部分は切り捨てたのである。  これはイスラム、仏教、ユダヤ教でも同じだ。
それが、人の作ったモノの悲しいかな、現実である。

神も、預言者も教典は書いていない。 従ってすべての教典のはじめには
如是我聞(ニョゼガモン)と書かなくては生けないのである。

「私は、このように聞き及んでいる。」 と言う意味である。

つまり、教典も文字、言語での表現であることから人の作り物である。 その中で真に神の言葉を
探す努力をしなくては成らない。 これが本当の信心と小生は思っている。

だが、
問題は、その教典はすべて、一字一句 神の言葉とおっしゃる指導者にあるのである。
それは、神の言葉も含まれるが、人の編集した文章であるし、
あるいは、文学作品であるから、すべてが真実で現実の出来事とすると、齟齬 (そご) を生ずる
のは当然である。 
また、
その文章を信じ
拝む行為自体 おかしなことである。 教祖様が最も嫌った偶像崇拝に
成るのである。

キリストも、マホメットも、仏陀も 墓が作られることを最も恐れたと伝えられています。
しかし、現実にはその恐れるがごとき、教典と言う不完全なモノが残され
指導者や神学者と言われる方々の解釈が、教祖様のそんざい以上の存在に成ってしまいました。
太古よりある宗教の問題はここにある。
もし、貴方が信じている教典があったら、徹底的に、納得がいくまで調べるべきである。
それが、信心であり、もしそれを不信心と言われるなら、その宗教はおやめなさい。

この問題は小生がここで論ずるべきではないが、問題点の一部としてご理解願いたい。


A 日本神話のコンセプト?

さて、ここで日本の神話が出てくるのは、いかにも、日本の神話が優れているから??
いや、いや、
日本の神道には、そもそも教典が無い!!!

各所の神社等でも統一したモノはなく、また、古事記、日本書紀などでも統一された話など
無い。 時の政治に都合良く編集加筆などされているだけである。
記紀を読んでも同じような話がいくつも記載があり、どれが正しいなど意味をなさない。
自分が信じる物が良い。(正しいのではない。)

雑多な民族が入り交じったこの島国で
仏教の経典も入ってきた当時 聖徳太子様もさぞかし困惑したことである。
そこで思いついたのが、

「和をもって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

太古より自然発生的に恵みの多いこの島国では、いさかいをせずに暮らせば皆が幸福に暮らせる
自然環境が存在する。 この辺が中東やアフリカ諸国で発生した宗教と大きく違うところで
そもそも、敵など作らないと言う発想で、現在も綿々と続く日本人 (日本に長く住む人間の意味)
のDNAに刻み込まれている習性なのである。

その習性が多くの都合から各種の神様を誕生させ、人々の仲介役や悪いことが起きても、神様の都合に
したりして、オブラートに包むようにしていさかいに至らない様にしたのであろう。

その究極的な表現として 「ムスヒ」 と言う抽象的な 言葉、あるいは 神様の系統を伝承してきたの
であろう

基本的には、「生きとし生けるもの」 すべてが幸福に暮らすことがその精神のコンセプトなのである。

蛇足ではあるかもしれないが、神道では死者は汚れたモノではなく、神とともに人々を守り
ムスヒの実現に協力するモノとなるので、元来 葬儀ではなく 祝い事になるのである。

このような習性から日本人は争いごとが苦手で、そのうち神様が何とかしてくれると言う発想から
無理に解決しようという 発想は薄くなり 結果西洋人の奪い取る発想に負ける場合が多々存在する。

しかし、西洋列強の奪い取る発想も現時の難民問題など 奪い取った国からの、静かな逆襲にあって
苦しむこととなる 現実を見るとき 短時間での奪い取り作戦は結局のところ、つけは払わされるのであろう。