活字離れ、TV離れは?
本当の意味

もう、数十年前からTVはみなくなった。
本は年に数回購入するが、古書店(リサイクルショップ)の利用が大半である。

確かに、ネットで情報は多く入手できるので調べごとで本を買うのはまれであるが
本でなければ入手できない情報も実は多くあるが、

自分が変わったのか本が変わったのか、本に呼ばれることが少なくなった。

昔は良く本に呼ばれて本屋に行ったが、ほとんど無くなったし、呼ばれるのは
古書店になった。

値段もあるが、未だに生き残っている本というのは、何か人知を超えたものがありそうでだ。
実はTVもそんなことがある。

しばらくぶりにTVをONにしてみると、
  「これって!  今、なんでやってる?」 と言う場合がたまにある。

TVも人を呼ぶのである。

本が売れなくなった、TVを見なくなったのは、 作者の精神がその作品に
込められていないからに他ならない。  
  そして最も重要なものは 作品の中に
  込められた 人間愛 慈愛 慈悲 等が縦糸、横糸になって織り込まれていなければ
  人の情緒を受け止められない。

単に驚かせたり、未知の物語を語るのは良いが、その裏には拝金主義が見え隠れしていては、
その作品は人の情緒を受け止めることはできない。

現代人は複雑である。 
 それは情報過多の時代の宿命、
 そして、知っているが経験の無い時代だ。 
 その経験という重要なプロセスを
 バーチャルに受け止めさせるのが媒体情報であるが、優れた作品は経験へと導く
 動機を誘導する。

しかし、そこまでの力が現在の作品にはない。 
現代人は
せいぜいほんのわずかばかり残った、残り香を求めれうろつくだけである。 
そして、うつろな目でしか、ものを見ることがなくなっている。

かくいう小生にもその力はなく、古書店をうろつくだけではある。

 本やTV は軽くなったのである。
 大量生産、大量消費の時代なのである。 もちろん人の命もである。

PS
 2013/07/02
 昨日久しぶりに 本に呼ばれた。  もちろん古書店。
なんと、コーラン(回教)の解説、聖典並びに「生物の起源」 「死海のほとり」の3冊
であった。 キリスト教の聖書は親しみがあったが、回教については解説書とネットで
ほんのわずかばかり聖典と解説を読んだだけだった。

いかにもアッラーに呼ばれたのかもしれない。 まだ解説しか読んでいないが
さて?。