聖書の疑問

ここで言う聖書とは一般的な旧約聖書と新約聖書についてである。

一般的聖書という意味は そして聖書とはこの一冊なのか?

現在の聖書は、第一回宗教会議(第1ニカイア公会議 (325) )において
コンスタンチヌス ローマ皇帝に寄っていくつかの宗派の教典の中から
出席者250名の多数決で決まられた。 ものである。

福音書は多数有ったのですが、その会議によって250名の司教によって決められたのです。
そして現在のキリスト教の正式な教典と成ったのです。
では、現在の聖書に載っていない福音書は?  消え失せたのです。

しかし、1970年に何と裏切りのユダの福音書のパピルス写本が完全な形ではないが発見されました。
ユダヤ教のグノーシス派の教典です。

その内容にはふれませんが、宗教会議の前まではこのような教義、教典が多く存在
していたことは間違いないことです。
キリストの弟子だけで13人ですから、福音書は13有っても可笑しくないのだが、実際に
福音書として残ってるのは4名のみである。
そのことも疑問ではある。
また、結局のところ、弟子の死後 口述伝承を文章にした訳であるが、
現在の解釈ではパウロが唯一明確な著者で、恐らくは一般大衆に理解し安いように
彼が編集したのであろう。 パウロ自体はキリストの死後ユダヤ教からキリスト教に
改宗、生きているキリストとは行動をともにしていない。 しかし
だからといって、聖書のそのものの価値には大きな影響はないとおもう。

この辺は日本の神話同様で100%真実である証拠はないし、ましてや、会議の開催主が皇帝であることから
皇帝に不都合というか、当時の政治的な配慮も当然あるのである。
しかし、子細は別として内容の多くは真実であると思う。

現在の私たちは盲目的に何かを信じることは無くなったと言っていいが、世界でも自由に情報が
入るのはごく一部の地域の人間だけで、このように聖書について再評価や疑問を調べたり
公表したりできるのは 私がそのごく一部の人間の中に入る。
が、わずか数百年前なら宗教裁判で火あぶりの刑である。  今でもアラブ諸国ではこのようなこともある
と聞くが私には確認できない。

とにかく、聖書や仏教経典もおよそ宗教の教典は人間が書いたものであるし
神様が書いたものなど無いが、啓示を受けたことまでも否定はできないのである。
さらに編集に携わった関係者も内容が一般庶民にわかりやすく解釈を加えることは罪ではないが
歴史という時間の中では無意味や意味不明になるのは当然なのである。
従って、私たちはその教典の内容について真剣に疑問を持つことは必要なことと思われるし
もし、神様は実在して小生が聖書の内容について疑問を投げかけたとして、私を地獄に
、もし、有ったとしてらであるが投げ込まれるとは思わないのだが。  
聖書の内容を変更することは固く禁じられているが、その文章を付け足したのは
人の業である。
日本国憲法同様議論さえ許されないのなら 神は人間を造ったりしないと思うのである。

時間と空間を超越している存在の神様は未来を知っているし、操れるのである。

神は人を懲らしめるために創造したのだろうか?

旧約聖書の創世記には神は自らに似せて人を造った。とある。
勿論いやで造った訳ではないでしょう。 

ならば神様が地獄や天国を造ったのだろうか、
神様が居るところが天国なら、
当然 物質の今の私たちの世界は私たちにとって
天国なのではないでしょうか?

人を創造して神は賛美されているのである。 
完全なる愛の存在の神が地獄等というものを造ったとは信じられない。 
地獄の存在を使って人を誘導するだろうか? 

どこかの独裁者の様な存在では決してないはず。
そもそも 
もし人が神に背くなら消してしまうのであろうし、創造しないであろう。
かなりの宗教がこの恐怖を利用して信者を獲得する手法をとるがそれは間違いのようにおもう。

人はエデンの園から出たとき、自らの判断で神様が感じたように、自らの努力で
完全なる愛に至る道筋を体験できる喜びを得たのではないだろうか?
そのように思うと 聖書の解釈として審判、罪人を裁くことなど
信じられないのである。
もし私が神なら、言うことを聞かない人など造らないだろうし、すぐに消すことだろう。
神を信じないのなら、異教徒なら、そうするだろう。



輪廻転生?(りんねてんしょう: 生まれ変わること)

聖書に寄るとキリストは復活した。
神が造った自然の法則で、死んだ肉体は復活できない。
もし、神が自分で造った法則を勝手に変えたのならば、この物質世界の完全なる美しい法則
は無意味になる。  都度変化するのでは法則にならない。

魂の復活と解釈したい。 他の肉体に転生することはできる。
これは、古代ギリシャ神話の想起説にあたる。
(その辺のところはプラトン対話集 「メノン」をお読みください。)

また、キリスト教をローマの国教にした際、政治的に不都合な部分は削除したことは
歴史学者の間では公の事です。
また、四名の福音書のみ公認としただけの話で、他の福音書には当然輪廻転生も
ありました。
(第二回宗教会議)

キリスト教の前進のユダヤ教(旧約聖書)の世界でも宗派によっては輪廻転生
は存在しています。

ギリシャ哲学では、
「人は何度でも生まれ変わる。 転生する際、おいしい忘却の水を飲まされる。
欲張りな人間はがぶ飲みし、すっかり霊魂の時代を忘れて転生する。
しかし、徳のある魂は忘却の水を多くは飲まず、転生後も霊の時代、前世を思い出すことができる。」
そんなことが天才がこの世に現れる原因となる。

ソクラテスは
「徳は人が教育することはできない。 だが積み足すことができる。
徳を多く積めば神の世界にとどまることができる様になる。」 と言っている。
まさに、仏教で言うところの「解脱」である。
従って、
「自分が死刑になっても何も恐れることはない。また生まれ変わり徳を積めばいいだけのこと。
恐れるのは徳を失うことであるから、命惜しさに自分の信念を曲げることはできない。」

といって、助かるための弁明を行わなかった。
何かキリストの裁判に類似すると思っているのは私だけではない。

制作中+++++++++++++

PS

2019・06.10
この項を書き
終え 数年後 ギルガメッシュ叙事詩 の翻訳日本語版を入手した。
旧約聖書の天地創造、ノアの洪水などの元ネタとされる世界懐古の叙事詩である。
例のくさびがた文字の粘土板の翻訳である。読んだのち 考えるに、

シュメール文明は東西の交易地の中継点であったためにオリエント(アジア)文明からの影響もかなり
あり、仏教やバラモン教など多くの古代宗教の影響もうけた可能性がある。
そう考えると、有史後新約聖書などは編集者によって近代化されたが、旧約聖書はそのままであろう。
勿論、ギリシャ哲学や宗教観はその後継であろう。
新約聖書は近代化され仏教などと大きくたもとを分けたが、以前は酷似していた可能性
はあるのだろう。
ギリシャ文明では多神教であったのが、後、一神教になっていったのも政治利用しやすく
するための手立てともふと考える。
日本の宗教観との大きな違いはそのギリシャ以降出来上がって近代化
日本はそのまま 昔のままなのでは と ふと かんがえてしまった。 

イスラム教は内容のほとんどが旧約聖書のコピーと新約聖書の引用およびその時代の風俗
を反映させた経典だと思われる。 したがって系列的に見るなら書物としては
聖書の亜種とみなされる。 
勿論書かれた時代も新しいのである。

やはり、軍事的に強い国の宗教が多く知れ渡ることになることは当然であろう。
どちらの宗教が優れているなどの判断には意味がない。


2012/07/29

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最も大きな疑問

新約聖書はそれ自体愛に満ちたイエスの存在を後世に伝えるすばらしい書物・歴史書
である。  しかし、人によって書かれた者である以上そこには著者の思いも入り込む。
また、
聖書を書物として読む場合、作者について知りたくなる。

特に、新約聖書については、イエスの弟子が13人とされるが、
聖書を編集したパウロ(英名:ポール)は復活前のイエスとは会っていない
が、弟子になっている。
また、13人の弟子のうち、聖書の福音書は4名分しかない。

パウロは復活したイエスを目撃し、ユダヤ教徒からキリストに改宗したとされる。
また、福音書も古代パピルス写本が発見されて内容が大きく違ったりしているらしい。
断っておくが 小生は研究家ではない。 気になるだけの年寄である。