日本人の責任の取り方

世界大戦後、ドイツは指導者ヒットラーを 全責任者 として終戦処理した。
事実そうであった。
       しかし、彼に賛同し行動したのは全国民であったはずだが、
       未だに彼の悪さを暴き出して国民の責任回避をしている。
    それが西洋的な責任の取り方で、そこできっぱり切り分けるのである。
    何せ、王様も輸入できる国々で、 首の取り替えは慣れているのである。

さて、日本は?
西洋的に考察するならば、エンペラーに全責任をおっかぶせて死刑にすれば現在のように
近隣の非礼な国々から、言いがかりをつけられないであろう。 
だが、非礼な国々もエンペラーを
直接非難することはできないのであった。
  
もちろん西洋人なら平気でそんなことができたでしょうが、
もし、そんな事でもしたら、この国民何をするかわかったもの
ではない。  
戦勝国はそこまでしなくて正解であったが、しかし、
多くの方が先勝国のリンチ(私刑)で殺されたのである。
 事後作った法律によってである。  

それが西洋人の間違ったキリスト教解釈なのである。

責任の取り方を深く解釈するならば、日本は全国民で責任を取るし取っているのである。
それにつけ込む非礼な近隣の国々も存在する。

戦争の解釈は話がながくなるので入り込まないが、
日本人の責任の取り方は道理によってなのであるから、一人に責任の全てをおわせることは
できないのである。

さて、道理とは??

西洋では法、法と言っても 基本原理にあるのはキリスト教であるが、近隣の非礼な国々は
マルクス教か、良くて儒教である。  どちらにしろ道理等とは縁遠い。
そもそも、道理とは 道であり 道とは 成仏するための生き方なのである。
さて、成仏とは?
何も、死ぬことではなく解脱することなのであり、解脱とは輪廻転生からの脱出なのである。

つまり、人は愛(又は慈悲)を学ぶ、又は経験するために現世に生まれてくる事を繰り返す。
生まれるのも、死ぬのも 肉体を持った者には苦痛である。
そのために、苦痛から逃げる事を欲する。  そこに苦行がある。

肉体がなければそんな苦行など無い。  しかし、そのことは肉体を持つ身には理解が
できないのであるから、肉体の苦痛から逃れたく愛を経験する前に挫折してしまうのである。

しかし、いつの日かそれを理解できる。 それまで繰り返し生まれるのが輪廻である。

その基本的な理念が理解できないと 道理は理解できない。  それは法ではない。

日本人の多くは法と道理の中で苦悩しているのである。

私には他国の事はよくわからないが、キリスト教も資料調べると同様な教えであし、
もちろん、イスラムもである。

他国の批判やら、他人の評価はとにかく、自分がいったい何者か、そして愛について
経験があるか?

それが問題であって、それ以外は どうでも良いことと言って良い。

ネットで誰が何を言おうと、関与することはないし、ましてや反論することなど問題外であろう。
人には愛を経験しなければならない目的があるのである。 

戦争の責任など誰にもないし、また、誰にも追求する目的も、したところで利益にもならない。
それらは愛を求める 人間の目的にも合致しない。

つまり、責任も罪も人には発生し得ないのであるが、 それを理解でき無ければ
私も、あなたも、輪廻するのであろう。

結論を言えば、
日本人は全員で責任を取っているのである。それは、責任回避をしない道理である。
つまり、解脱する道であると潜在的に理解している人が大多数なのである。

しかし、解脱したくない日本人も少なくはなく、 何とか、一人の人間に罪を負わせ、自らは
潔白であると他国に思わせたい方々もいらっしゃる。

その方々は、西洋の責任逃れのインチキ解釈宗教と同一であるから判断を修正された方がよろしいように
思えるが、所詮時間の問題であるからあえてここで非難することも無いのである。

結論は常に同一、人はいつの日か愛を経験し 輪廻から解脱することになる。

つまり、天国に行くのである。


と、ある学者が言っていた。  と言うことにする。


お粗末様  ちょうど時間となりました。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。













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