自然から学ぶべきこと

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盛岡 石割桜

人間は自然から多くを学んで、科学、文明を発展させた。
この世界で多くの(先進国の)人々がその恩恵を授かった
様な錯覚に陥ってる。
果たしてそうであろうか?
世界の2/3はその発展の外である。 その現実を認識
できる可能性の有る人々は全世界の1/3に満たない。

しかし、十分満足しているはずの、その1/3の人々の欲望
は尽きることがない現実が、そこに矛盾して存在する。
それは一体どうしたことなのか?

上の写真は、石割桜として有名な、盛岡市役所のそばにある桜の木である。
何を好きこのんでこんなところにと、思うのだが、彼女は気にすることなく毎年花を咲かせるのである。
ちょっとできの悪い人間なら、ふてくされて自殺しているところである。
このような環境でも自然界の法則通り生き抜くのである。
平等や権利など全く無関係である。  

全て平等で基本的な権利が守られる等という妄想は自然界には無い。
と同時に人間界にもない。これは差別でも何でもない現実である。

人は情報の伝達、継承ができる唯一の動物(怪物)であることから、他の地域の生活や文明を知ることが
できる。
しかし、それは知ることだけで、その環境を取得できない。
「ラクダが針の穴を通る事」(新約聖書中の言葉)は量子論的確率論としては可能であるが現実は不可能と
言われる。
いかにもすぐ手に入る様なTVの宣伝文句や、中刷り広告に、いともたやすく洗脳されてしまう。
中途半端な状態で生まれてきた脳みそのおかげである。

自然界の生き物同様、まずは、自分の環境を悲観的、楽観的に見るのではなく現実として捕らえることが
必要ではないだろうか。
人間で有る前に、自然界の動物として環境に適応し、その後に自らの環境を客観的に見直す
べきではなかろうか。

それをしなければ、必然的に人は欲望の虜になる。   今からでも遅くないと思って、小生も自分の
環境を見て、自ら何ができるのか考え直す 日々であります。

「色即是空」「空即是色」 形有る物は必ず消滅し、何もないところから
生ずるのである。
自然界に生きる物(人間界も含め)は全てやがて滅び、いずことなく生ずる。
その現象に不公平はない、自然の摂理、大原則なのである。  その原則の中に生きる私たちは
岩に咲いた桜、道ばたに咲いた野菊同様  自分の存在する環境に精一杯生きてことにそこ、地球に
生まれた物の運命であろう。  
人の精神的苦痛や不満は、他との比較に他ならない。  しかしその問題は解決し得ない。
人は他とは成り得ないし  他も貴方に成り得ません。

せめて、自らの環境で、苦しくも花を咲かせようではないか。
その花は、美しい花に見えることに成ると思うがいかがか。

他をうらやんでも、不満はつのる。
決してその不満・要望は満たされることはない。

私がいま生まれて、存在することは、
それを悟りと言おうがなんと言おうが 現実に生きていると言うことは、自分以外の原因で生じて
いるわけである。 その理由は皆目見当がつかない。
しかし、少なくも自分の意志ではない。と言うことは、どこかで誰かが見守っているはずである。
と思っても良い。 お天道様でも良い。 神様でも良い。 親でも良い。
自分の目には見えないが 見守っているのである。 誰かが・・・・・・・・・・。


続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・